螺旋の回帰  [上]に戻る

 生ぬるい水が、次々と口の中に流れ込んでくる。
 はっ、と、目を開けた男の視界を、まだらな闇色の広がりが占める。
「空」
 …ソラ。
 男は、自分の口をついて出てきた言葉を、心の中で何度も反芻したが、その「意味」は、いっかな自分の中で形を成さず、空転を続けた。

 狩りの帰りに突然の嵐に遭遇した、ある地方の豪族の首長は、雨を避けて、近くの森に足を向けた。すると、その森の外れに、ひとりの青年が全裸で倒れているのを見つけた。
 首長は、青年に駆け寄り抱き起こすが、青年は、
「空」
と言う言葉を、何度も繰り返すだけだった。
 これは何かの縁だろうと、首長は、青年を客として、自分の家に連れ帰った。

 青年は、自分についての知識を完全に失っていた。
 肉体が回復して後、青年は首長の護衛隊員となり、すぐさま、めきめきと頭角をあらわした。体力、知力、共に抜きんでて、特に森の中では、伝説のエルフの如く自在に動き、狩りでも、他の豪族や魔物との戦闘でも、常に先頭に立ち、よく首長を助けた。
 青年は首長より、その勇をもって、『先駆ける者』を意味する「ハーバイン」の名を授けられた。

 やがて青年は周囲からも認められ、首長の娘を娶り、その国の王となった。


 ハーバイン王は、政務に疲れを覚えると、森の奥深くへと狩りに出掛けるのが常だった。
 従者や護衛隊の随行は許したものの、森の中では、王の後を追える者はひとりもおらず、王は、気儘な自由を満喫するのだった。
 その日。
 思う存分に森を駆け、満足した王は、木々に囲まれ、広場のようになった場所を見つけた。休息しようと、そこに足を踏み入れた時、王は何者かの気配を感じ、身構えた。
「剣を収められよ」
 王の正面に、森の中から一人の男が歩み出た。両手に何も持っていないのを確かめて、とりあえず王は剣を鞘に戻した。
 数歩の距離を置いて、森から出てきた男は王の前に立った。その頭部は、何かの皮革で作ったらしい頭巾で、目だけを残して隠されていた。
「顔を見せよ」
 手を剣の柄に添えつつ、王は命じた。
「私は、貴殿の臣民ではありません。命令に従う謂われは、ございませんな」
「何者だ!」
「森に生きるエルフの長、オーデと申す者」
「何!?」
「王におかれては、殊の外、森を愛でておられるご様子ゆえ、常々ご挨拶をと思っておりました。今回、良い機会でしたので、こうして参上した次第」
 その口上と共に、森の長と名乗った男は頭巾を取り去った。『森の長』にしては若々しい、壮年の男の顔が現れる。
「…どこかで、会ったか?」
「いいえ」
「そうに違いないのだが…思い出せん」
 王は、額に手を当てて、苦しげに屈み込んだ。男が近づこうと足を踏み出す。
「寄るな! 『森の長』よ」
 そう口に出して、王は、自分の言葉に驚いた。なぜ、目の前の男を、自称した通りの『森の長』であると認めたのか。何も、男の言葉を信用するに足るものはないにもかかわらず、王は、自分の心が、この男は『森の長』であると認めていることを訝しんだ。
「王よ」
 『森の長』は、膝をついた王の前に、透明な瓶を置いた。
「これは、ささやかながら、私からの贈り物。よろしければ、ご賞味ください」
 そう言うと、背を向けて森へと歩き始めた。
「待たれよ、『森の長』殿。酒か何かは知らぬが、得体の知れぬものは、残念ながら受け取れんぞ」
 『森の長』は、その王の言葉に振り返る。
「毒味をせよ、と?」
 二人の視線がぶつかった。王は、『森の長』の顔を見たことで、再び目眩に襲われたが、それを精神力でねじ伏せて、視線を外そうとはしなかった。
 やがて、『森の長』が微笑を浮かべて、瓶を取り上げた。そのまま栓を抜き、口を当てると、一気に半分ほどを飲み干した。
「…よく判った、『森の長』よ。疑ったことは謝罪しよう」
 十数度、呼吸を数えた後、王は『森の長』に向かって頭を下げた。
「封を破りました故、失礼ながら、ここで賞味していただけますかな、王よ」
「…よかろう」
 王が差し出した手に、『森の長』は瓶を渡した。王は、相手がそうしたように栓を抜くと、まず匂いを嗅いだ。
「酒ではないのか」
「…イシリウスの泉より湧き出る黄金の水に木の実を浸したもの、です」
「ふむ」
 王は、やはり相手と同様に、一気に中身を飲み干した。
「中の、木の実もどうぞ」
 『森の長』に促され、王は、朱色の木の実を三つとも口に含み、噛み砕いた。
「喉越しは、悪くない…腹の底から、身体中に爽やかな力が漲る感じが…」
「…王」
「い・し・り・う・す…」
 眼前に『森の長』の顔がある。それは…そう、水に映した自分自身の顔と瓜二つだった!

 現在では、ギーラのさしがねであろう、と結論付けられている。
 オルラディンが造り上げた、オーデの肉体を複製する装置。
 それが、中身と共に、一基まるごと盗まれたのである。
 装置の行方は、いまも全く判らない。
 そして中身は、ここに在った…ハーバインという名と、その人生と共に。

 「空」
 目を見開き、そこから滂沱の涙を流しながら、ハーバイン王を名乗っていた男は、仰向けの恰好で呟いた。
「このまま行方不明になってしまうのが、最も後腐れがない」
 傍らで、醒めた顔で相手を見下ろしながら、『森の長』が言う。
「妻や子供たちに、一言も残さずに、か…」
「判っているだろう、ハーバイン」
 そう言って、『森の長』は横たわる男の顔を覗き込む。髪形や細部に違いはあるものの、双子と言っても通るだろう顔が、互いの瞳の中に歪んで映った。
「ハーバイン、か…遠い響き、だ」
「どう呼べば良い? オーデか?」
「最大の問題は『それ』だな」
「あぁ。二人も『オーデ』はいらん、からな」
 全く同質の苦笑が、同時に二人の口許に浮かんだ。


 少なからぬ時が流れ。
 森の長を、覇王を名乗る若者が尋ねて来た。
 長は、王の名を聞き、僅かに表情を動かしたと言う…どんな感情が、そこに働いたのかは、むろん、オーデ自身にしか判らないが。
 しばし二人は歓談し、森の長は、王に『風の館』の場所を進呈した、と言う。

                                     おわり

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