店主酔言

書籍・映画・その他もろもろ日記

2007.7

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7月1日(日) 晴

 例によって布団の中から『仮面ライダー電王』を観る。今回もまた個々のキャラを立てつつ、コメディとシリアスをいい具合に塩梅して、気がつくとエンディングになっている面白さだった。おお、リアルで時間を飛び越えてるぜ!<違います
 個人的な見どころは時間の中で孤児となってしまったヒロインの気丈さと、言葉に出さず彼女を気遣う主人公たち。これまで重ねたドラマの中でいつの間にやらしっかり呼吸が合ったイマジンたちも総出で協力体制に入ってたりして、自然にファミリーと化してるあたりが微笑ましい。そしてアウトサイダーとして登場したいま一人のライダーが彼らとの関わる中で微妙に気持ちを揺らがせているのも、(回数)制限つきの変身という不安定な立場あいまって思い入れを誘う。
 大きな謎をはらんだドラマの脇で展開する小ネタもおかしく、画面の外からツッコミたくてムズムズ。えーとデネブ、君どこからソレ出してるの?あとウラタロス「もう電車じゃないね」って、デンライナーだって似たようなもんだろが。

 先週いっぱい二人揃ってひきこんだ風邪がまだ治りきらないので、今日は引きこもって短編小説など読む。主として手持ちのクリスティ(ミス・マープルもの)を再読していたが、未読棚からも1冊とってみた。『パニックの手(ジョナサン・キャロル/著), 浅羽 莢子 (翻訳) )』。
 ふとしたきっかけで日常から言葉巧みに誘い出され世界の舞台裏を見せられて、当惑の中置き去りにされるような物語集。足元の頼りないところをふよふよ歩くのが好きな人種には悪くない味わいだ。とはいうものの、本当に読み手を放り出してゆくオチ無し話や、アリガチなネタをそのまま幕切れへもってく展開もあるので手放しには褒め難いところ。熱狂的な犬好きならあるいは、そこらに目をつぶれるかもしれないが。


7月8日(日) 晴

 早暁に目覚め、相変わらず地層のごと物が積みあがった物置/作業場/書庫の片付けに突入。この順序が逆になってくれる日はいつであろうかと思いつつ、ふと手元で揃ってしまった『天は赤い河のほとり(篠原千絵/著)』を通読。えーと、作業の終わりは少なくとも半日分遠のいたな。なんたって文庫で全16巻。
 天は「そら」と読む。表題の示すところは舞台となる古代ヒッタイトの地であり、ヒロイン・夕梨(ユーリ)が物語の半ばで示す決意の言葉である。
 絵柄をみるにコテコテの少女漫画、しかもとかくご都合に陥りがちなタイムスリップものということで当初はアレルギー気味だったのだけれど、偏見を抜いて一読するとコレがなかなか見事な「国盗り物語」。可愛らしい容貌と運動神経以外はおよそ平凡な(つか世界史の学習レベルがかなり低いぞおい)少女が古代の異郷で艱難辛苦に鍛えられ、恋した男とともに在るべく遥か高みを目指す過程はいっそスポ根的なパワーすら感じる。まあ、少女漫画のお約束な部分ではご都合主義も健在ではあるけれど、そこをツッコむのは野暮ってもんでしょう。ヒロインは常にモテモテでもいいじゃないですか、ましてこの場合は「力量」に惚れられてるケースが多いのだし。
 同じように少女が異界へ飛ばされる話の白眉として、ひかわきょうこの『彼方から(文庫・全7巻)』があるけれど、いずれも家族や故郷をぽいと忘れて現状にのめり込むハリウッド映画的なキャラではなく、常に心に別離の痛みを抱えながらそれでも踏み入った地で気丈に生きていくというところがいじらしく、一種「萌え」を呼ぶものがある。また本作の場合はことに、終幕で無常感すらかもし出してるところがある意味すごい。「二人はいつまでも幸せに暮らしました」という御伽噺的ハッピーエンドで〆ないあたり、大河ドラマでいうと『風と雲と虹と』みたいな・・・って、こんな古代の話をしても誰にも通じませんか?ううむ、諸行無常であることよのう。


7月9日(月) 晴

 『ナイト ミュージアム』を観る。久々に素直に「こいつぁ面白い!」と、無心に愉しめる映画だった。
 職にあぶれ妻に去られアパートからは転居を迫られ、いいとこ無しの主人公・ラリー。愛する息子も元妻の恋人に懐いており、なんとか失地を回復したいと掴んだ藁は博物館の夜警。長年勤めた老人3人組をリストラして後釜に座る形なのに不思議と彼らはニコニコと職を明け渡す。それもその筈、ここでは深夜になると展示品たちが生命を得て動き出し、勝手に暴れまわるのだった。どうにか職務を果たそうとするラリーだったが、次から次へとトラブルが…。
 良く出来たコメディの条件として、ストーリーはシンプルでネタは大小てんこ盛り、ついでにキャラも立っていれば言うこと無いのだけれど、本作はしっかりとこれらの条件をキープしている。予定調和的に先が見えるのに飽きさせない演出で先を引く物語の展開、画面の端々にまで散りばめられた「遊び」の数々、そしてキャラクターはというと。
 才覚に乏しく腕っ節も無くついその場凌ぎをしてしまう主人公は、後半で見せる成長(しかしギャグ成分は抜けず)もさりながら、基本的な知識の欠如からくるドジと迷言がそこここで笑える人物。また作り物にすぎないことはわきまえつつ、それでも自分の設定に忠実に(「ティリー」には若干自覚が足りないようだが)生きている展示物の面々が実にいい。寄るとさわると喧嘩を始めるローマ兵とカウボーイ、とにかく火を熾すことに執着し要らん好奇心を発揮するネアンデルタール人、野蛮なんだか律儀なんだか分からないフン族、中に唯一「本物」でありながらキングス・イングリッシュを話すエジプトのファラオ、といずれ劣らぬ自己主張っぷりだ。
 役者のチョイスもまたこれに華を添え、ロビン・ウィリアムズがいつもの前面に出まくりな演技を抑えてジェントルかつシャイなテディ・ルーズベルト大統領を好演。またディック・ヴァン・ダイクが先輩警備員3人組のリーダー格を演じているのだが、『メリー・ポピンズ』の小粋な煙突掃除人の面影を残しつつ、名脇役ミッキー・ルーニーを従えてちょいとブラックな味わいを見せるあたりはもう、うっかりにんまりしてしまうほどダンディでカッコイイ。エンドクレジットで軽快なステップを見せてくれるのには仰天させられたが。えーと、御年82歳の筈ですよね?もしかしてほんとに例のブツは存在してるんですか?


7月20日(金) 曇時々雨

 尾篭な話ながら、現時点で我が家の長老様であるペルシャ猫のチーズ(18歳なので、ヒトに換算するとかなりのご老体)がこの週明けから糞詰まりだ。
 まあ今に始まったことではなく、ここ数年は2ヶ月に1度ぐらいの割合で詰まらせてる。この種類の猫にありがちな腸の奇形からくるもので治しようもないのだが、そのたび吐いたり液状のブツを垂れ流したりと、破壊力の大きいテロ行為をやらかしてくれるので頭が痛い。こちらの外出時はオムツ装備で放牧、帰宅後はケージに入れてオイルマッサージが日課になる。
 ある程度の予防法として、汁気の多い餌や猫用の乳製品を与えたり、こまめに背筋を撫でてマッサージにこれ努めているのだが、ふと思い出すに古い時代の映画やTVの悪の組織の偉い連中はみんなペルシャ猫を膝に乗せて撫でていたような。餌のシーンではミルクばかりだったような。もしかして連中も詰まってたのか?
 …悪の組織の首領になるのも、なかなか大変そうである。

 で、ゴルフボールサイズにまで育って丸まった巨大なブツは今夜無事排出され、次はオムツ装着中にできた毛玉を刈ってやらねばならないということになった。
 悪の組織のペルシャ猫は、誰が毛刈りをしてたんだろうとか思いつつ。


7月21日(土) 曇

 『朗読者(ベルンハルト・シュリンク/著、松永美穂/訳)』読了。感想の述べ難い作品である。軽々に語れる物語ではない。
 (猫の便秘話の翌日にはなおのことだ、タイミングが悪くて申し訳ないとしか)
 15歳の少年が年上の女性を愛し、ある日突然去られる…というところまではありがちだが、喪失感を抱えたまま成長した彼が再会した彼女が法廷に、しかも戦争犯罪人として立っていたというのは不意打ちにもほどがある。まして舞台はドイツ、彼女は収容所の看守だったときて、物語の空気は一気に身動きできないほどの重苦しさを帯びる。
 二次戦でわが国はあちこちが焦土となったものの、ほとんどの地域は戦場にはならず、まして存在そのものを罪とされた人々の虐殺など目にすることはなかった。それゆえか当事者の子供世代はそれを糾すことも覚束なく、再度たちこめた暗雲に向かうにさえ反抗期がてら学び舎で大暴れししまいにテロリストだのハイジャッカーだのに成り下がるやつらまで現れるグダグダっぷり。で、読み手たるこちとらといえばさらに下って、その世代の徒労を小学生時代に横目に見て意味も分からず冷笑しつつのんべんだらりと流され育った身である。国内(或いは地続きで言葉の通じるエリア)で起きた大量殺戮の痕跡を目の当たりにし、同じ言葉で断罪を突きつける被害者に直接出会うことさえあったろうドイツの戦後生まれたちの思いは想像するも難しい。まして作中ハンナが問われる罪が、その世代の主人公に与える衝撃は言葉を重ねて語られてさえ推し量るにすべもない。
 そしておそらく生まれついた境遇ゆえに「朗読者」を必要とし、目の前に現れた「機会」のままに流されていかざるを得なかったハンナが最後に下した決断は、その輪郭が曖昧なまま、けれど胸苦しく悲しいばかり。かくて「戦争を知らない子供たち」には言葉にできぬ感傷と疑問だけが残った。
 誰が悪いのか?
 自分ならどうしたのか?

 けれど、そうして素直に哀感をおぼえつつ、それに反して「戦争の局外者」としてのシンプルな疑いも沸いてきたりもする。証人の記憶のみに頼らざるを得ない裁判は、語り手主人公の想像による擁護では天秤を傾けることができない。同じことがまた罪を問う側にもいえるのだと、著者が見え隠れに語っている気もするのは深読みだろうか。
 そういえば、BBC制作の『アウシュビッツ』を観た時に、彼女によく似た境涯(と容姿)の女性看守を目にした。彼女は「職務」に過剰なまでに忠実であり、裁きの場での態度もハンナとは正反対だったようだけれど、果たして真実はどうだったのだろう。
 結句、その場に居合わせなかった者には問うしかできないのだろうな。あとは、戦の神の車めがけて、どんなに微力だろうと斧を振り上げる蟷螂たるしか。


7月25日(水) 

 犬を拾った。ほんの束の間。

 前からちょくちょく話題にしたり写真をアップしたりしているが、我が家の窓の下には通路を隔てて川が流れている。水深は大雨や雪解け以外は概ね10cmにも満たないので、幅5メートル深さ3メートルほどのコンクリ製の堀といったほうがいいかもしれない。
 その底に、コンクリの流し損ねで水面より高くなっている部分が若干あって、今朝そこに赤茶色の毛並みが丸くなっていた。はじめは「でっけー猫」と思ったのだけれど、にゃーと呼んだこっちへ振り仰いだ顔は犬。階段など無い水路から、自力で上がってこられっこないイキモノだ。慌てて近所の工場へ、梯子を借りに走った。
 まだ若い柴犬だったが、脇腹と尻がボロボロに禿げていた。特に尾は血が滲んで痛々しく、皮膚病のようだ。しかし前半身の毛並みには汚れひとつ無いし、目も澄み鼻も湿っている。分泌物や消化不良の兆候も見えない。足の爪が伸び加減なのが気になるが、室内飼いだったのか。落ち着かなげにおどおどしてはいるが人懐こく、すぐに人の手から餌をとって勢いよく食べている。禿はストレス性か、アレルギーかもしれない。
 棄てられたのだろう。以前、うちで拾って育てた仔猫たちと同じように。無機物のように頓着せず。よしんば無機物だって、こんなとこへ捨てていいものじゃないんだが。
 とりあえずは病院へ連れていってやらねばならん、それには軍資金…と、手元にあったリードで繋いでおこうとしたら、こちらが背を向けたとたんに悲しい声を張り上げ鳴きだした。首輪の跡も無いところをみると、繋がれ慣れていないか嫌な記憶でもあるのか。あいにく住宅密集地、騒がせておくわけには行かない。ままよと放したまま自転車に飛び乗り、全速力で銀行に行って戻ってみたら、もう姿を消していた。
 馬鹿だ。猫に用意してある、でっかいケージに押し込んで、玄関にでも置いて行けばよかったのだ。
 結句、あてどなく帰り道を探して車に跳ねられかねない自由しか、与えてやれなかった。

 出社後、憤懣やるかたなく、机を並べる年若い同僚にメッセで愚痴った。彼女は言った。
 「醜い話じゃのぅ」
 見事なものだ。当を得た、他に選びようの無い言葉だ。
 それから彼女はこう継いだ。
 「でもご飯は食べられたのね、、、ヨカタ」
 ありがとうM嬢。
 今度はもうちょっと賢くなることにする。もしあのチビが戻ってきたら、その時は特に。


7月29日(日) 晴

 爽やかに青い空を、なぜか飛行機雲が3本ほど横切っている選挙日。来週に迫った千歳の航空祭の予行演習でもあろうかなぁと呟きつねこまとふたり、投票所の小学校へ向かう。近在の公園を横切っていたら、鴨の親子とカラスと鳩とカモメと、おまけにでっかいミドリガメがてんでに日光浴をしていた。住宅街に囲まれた公園の池で見るには、なんともシュールな光景である。まあ、今日一票を投ずべき候補者たちに比べればおとなしいもんだと言えるが。

 で、朝昼兼用のカレーを食べて帰ってくる道すがら、先週、鬱々たる気分ではぐれた捨て犬と再会した。大家さんちの庭の向こう、我が家の窓からいつも見える工務店の物置前で。先日大雨の降った夜、雷鳴にまぎれてひゃんひゃん鳴く声がしていたのは、こいつだったらしい。
 こっちを覚えていたものか尾を振りながら近寄ってきた目も鼻もピカピカ、禿ちょろけてた部分には柔毛が生え始めていてほぼ悩み無用状態。辺りを見回ると物置の床下に餌や水入れが置かれている。あれまと思いつつ犬をこね回していたら、庭を越えて大家さんがやってきた。いわく、近在の犬猫好きおばさんがかくまって世話をし、人用のかゆみ止めを塗ってやっているとか。どこの小学生ですかとツッコミたくなったものの、川から拾い上げられた経緯やその後の経緯も情報共有してたとかで、ご近所ネットワークおそるべしである。
 しかも小学生とは違って、この先のプランもすっかり考えられているらしい。拾い損ねて寂しい気がしないでもないけれど、とりあえず陰ながら見守っているとしよう。部屋の窓から双眼鏡で…は、別な意味でご近所ネットワークにひっかかりそうなのでやめとくとして。

 『ハンニバル・ライジング 上巻(トマス・ハリス/著、高見浩/訳、新潮文庫)』読了。
 教養豊かで洗練された殺人鬼、レクター博士ご幼少の砌から「ザ・カニバル」の人格形成期を描く物語である。とはいうものの話の骨子は既に前作で明かされているようなものなので、いまひとつ興趣をそそらない。そもそもこちとら成長しきった怪物の悠揚迫らぬ不敵な物腰に魅せられているのであって、これからそこへ向かうであろうエキセントリックな青年の復讐(しかもそれが成功するであろうことは明らか)にはどうも思い入れしにくいのだ。微妙に変なジャポニスムを含めて、ファンによる二次創作レベルの作品といえよう。
 そういえば先ごろねこまが(四半世紀前から再販を待った挙句、物欲神の導きにより機会を得て)購入した写真集によるヴィスコンティの人物像が、微妙にかの殺人鬼に似ている気がする。身辺のアイテムについての濃いこだわりはもちろん、人の見方選び方、独特の「粋」といえる美学などなど。せっかくなのだからハリス氏にはぜひ、赤い薔薇を抱えて誰かの葬式に飄然と現れ去るかの怪物を描いてみてほしいものだ…って、これはこっちで脳内二次創作しちまってますが。


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