店主酔言

書籍・映画・その他もろもろ日記

2007.9







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9月1日(土) 晴

 『CSI:科学捜査班 グレイブ・デンジャー』を観る。ファンのつとめとして発売日(実はフライングで前日)に購入したものの、なかなか時間がとれず積ん読になりかけてたやつだ。まあ、地上波未放映のシーズン5最終回(前後編)をまとめたもの、放っておいてもいずれ…とは思ったのだが、なにせあのクエンティン・タランティーノが「メガホン取らせろ!」と押しかけ監督したエピソードだというからやはり気になるじゃないか一刻も早く観たいじゃないか。
 というわけで深夜上映会を決行。で、どうだったかというと…普通に面白かったな。トラブルに巻き込まれるメンバーのチョイスとその状況への対処も、他の面々が懸命にかつ角度を変えて事件に切り込む個々の動きも、犯人が取る意外な行動も、細かい描写と退屈させない展開で話に惹きこんでくれる。
 もっともあの監督作品としてあの強烈なカラーを期待した向きには拍子抜けだろうな。ところどころの画の撮り方がいかにもってことと、アル先生とデビッドのブラック漫才(いや、こういうの好きですけどね)以外にはほとんどそれらしい箇所は無い。普通にシリーズの1作となっていて、さのみ突出したものは感じられない。
 しかし、タラちゃん(違)節全開だとそりゃ『CSI』じゃなくなっちまうワケで、ごく当たり前に楽しめたということはタランティーノがいかにこのシリーズを観、かつハマっているかってことなのだろうな。オリジナルキャストで二次創作したようなものだ、まったくもう、ヲタクなんだから。しかもご贔屓キャラはホッジスですか?濃ゆいっすねえ。


9月3日(月) 晴

 新しい冷蔵庫が届くので、朝もはよから相方と大騒ぎ。庫内のものを発泡スチロール製の瀞箱に移し隙間に保冷材を詰め、外側に貼り付けていたマグネット類(仮面ライダー初代から龍騎まで)を片付ける。ほどなく配送人が来て、前より一回り小さい(なのに容量は100L程度しか変わっていない、科学の進歩じゃのう)のを据え付けていった。
 夏のお小遣いはこれと新しい眼鏡(あろうことか遠近両用)と、かねてアコガレの円い卓袱台を買って終わった。ちょっと食指を動かしていたウクレレはサンタさんの到来までお預けである。もっとも、ウチに来るようなのはハロウィン・ランド出身じゃねぇかって気もするが。
 ついでにねこまはクリスマスを待たずに炊飯器と掃除機を新しくしたいそうな。きっとウクレレはその後になるんだろうな。くすん。

 『ぐるりのこと(梨木香歩/著、新潮文庫)』を読む。日ごと荒みゆく世界への危惧と「かなしみ」を綴りつつ、その中で物語が何をなせるかを思いめぐらす作者の、ひとり語りを静かに聴く印象。
 ただ、生活の中で出会う妙な感触の人間たち(某ちゃんねるで言うところのDQNというヤツ)とか荒れ放題の世界情勢とかへの憂慮は納得できるのだが、殉死型のドラマに陶酔する人を同列に語っているくだりで、男たちというものの大半が「そういうイキモノ」だということを頭の外に置かれているような印象を受けた。
 たとえば彼女の思考の端緒となっている『ラスト・サムライ』にしても、その作中に語られるカスター将軍の配下にしてもテルモピュライの300人にしても同じことではないかと思うのだが、男にとってカリスマたる人物は行く先がよし地獄であろうと時として「神」となるのだ。結果的に勝ち戦になったにせよ、桶狭間の信長、東へ突き進んだアレキサンダー、ルビコンを渡ったカエサル、従う者にとっては只人ならず、まばゆいばかりの生神であったに違いない。それは戦においてだけではなく、たとえば狂王ルードヴィヒにとってのワグナー、スーラにとってのモネ、シューベルトにとってのベートーベンだってそうじゃないかと思う。そこに生じるのは宗教的熱狂であって、母性回帰とは違う気がする。またなにも昨日今日発生したものじゃない。
 (ついでに言うとサムライに憧れるつーのは、当時の日本で人口の1割程度がその階級だったつーことで、農工商の劣等感めいたものも含んでいるのだと思う)
 で、女たちもそれに共感して涙する…という見方も、これまた違うような。女性のそれは(多くの場合)一時的な情だろう。可哀相いとしい惜しいと泣いておいて、区切りがつくとすっきり立ち上がって前へ進むだけのこと。別章で語られている子供向けのアニメの中の少女の描き方は、期せずして地に足をつけた「おんな」たちの影をちらりと見せているだけのようにも見えなくはない。
 いや、これは、原初に還ろうとするように弱肉強食化している世界の果てに、さらに遡った大地母神信仰系の世界が生じないかな、と夢見ているための印象かもしれないけれど。


9月8日(土) 曇のち晴

 一昨日あたりから日本列島をずんずんと北上してきた台風が通り過ぎ、雲がついて行った後は強烈な夏の日差しが戻ってきた。会社への30数分だけでこんがり黒焦げになりそうな按配…って、夏じゅうこうして通勤しててもうかなりイイ色になってますけどね。ガングロ中年、街をゆく。

 『宗像教授異考録 6 (6) (ビッグコミックススペシャル)(星野之宣/著、小学館)』を読む。今回3本立て。
 まず「再会」冒頭では、教授と姪っ子の調査行とシリーズキャラクター忌部神奈女史のトラブルが前後して描かれる序盤でちょっと戸惑うが、場面を切り替えつつ語られる浦島太郎とかぐや姫、その祖形を遡った向こうに現れる物語は、著者畢生の『月夢』を髣髴とさせてなんとも美しい。かれらのこころを思いやる人々により、あちらよりずっと暖かみのある幕引きになっているあたりもちょいと泣ける。
 続く「テキスト 天空の神話」は教授の「教育者」としての面を見せる珍しい1編。この講義なら脳まで筋肉でも記憶に残るだろう、つかちょっと受けたい気もする。もっとも東亜文化大学には社会人学校はなさそうだが。
 そして巻末「黄泉醜女」は、人が恐怖心を克服しようとなにを創り出したかを描いて実に怖い。実際のとこ、古代宗教で(アステカなどの自己犠牲を除き)供犠とされた者たちの姿かたちは現代人の臓腑にも迫る怖さだわな。これまた著者の『アルデンヌの森』なんぞ思い出して、いささか涼しい思いをさせられたり。いや、結構なお手前でございました。ごちそうさま。


9月9日(日) 晴

 ここらの鎮守の神様の、今日はめでたいお祭り日。ってことでねこまと二人、坂を上って鳥居を潜った。

今日の1枚

 いや諸君、何も言うな。何せ次があるでな。

今日の1枚

 ふふふ。並み居るチビっ子どもに大人の財力を見せ付けてきたぜ。ついでに頭の後にくくりつけたお面を「モモタロスだ〜」と指差した3歳ぐらいに向かって「俺、参上!」を繰り出してきたぜ。ビールの入った中年は怖いものなしだぜきゃっほーっ!

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 で、今日の『仮面ライダー電王』。
 他者の記憶から自分が消えてゆくことを代償に変身してたという強烈な設定が明らかになった、侑斗がまさに「ヒーロー」だったなあ。これまでの人を寄せ付けない態度も、劇場版での台詞「人が覚えていれば時間は消えない」も、これを踏まえていたと思うと重みががらりと変わってくる。過酷な宿命を背負って独り闘う、それこそまさに仮面ライダーだ!
 (オカンのような性格のイマジンが居るが、まあ初代にも立花のおやっさんが居たつーことで)
 そして台詞、演出ともに光るもの多いエピソードであった。上の記憶にまつわる愛理とのシーンは実にじつに美しかった。形を成しかけた記憶を辿るごと差し伸べられた手、しかし背を向けて良太郎たちを救いに走る侑斗の決め台詞、戦いの後で再び「桜井」の記憶を無くして微笑む姉に、なんともいえない複雑な表情を向ける良太郎。
 またリュウタロスが痛い経験とその後の仲間たちのフォローを経て成長したあたりがさらりと描かれていながら印象的。これについてはとくに後者の方が効いてそうだよな〜。「答えは聞いてない!」の我侭キャラを通してきた上に意地から単独で戦って共通の宿主を死なせかけたのに、誰も彼を責めなかった。「弔い合戦や!」と憤り「ウチの小僧が世話ンなったなぁ!」と怒る仲間に、初めて参戦の了解を求めたってのは大きな変化だと思う。
 それに戦闘シーンの多彩さは、ここまでのシリーズ中でも特筆ものだった。剣での闘い、肉弾戦、それにバイクでのスピード感あるバトル。強力な敵に圧倒されつつ、それを覆してゆくという展開も燃える。
 と、ここまで気合の入ったエピソードなのに、例によっての細かいギャグも「てんこ盛り」で随所でしっかり笑わされた。「ボク生きてるよぅ」のリュウタロスに慌ててフォローするキンタロス、デネブのお見舞いグッズ(たしかにアレは怪我人には重い)にナオミとの会話、憑依されたとたん走り方が変わる侑斗などなど、見返しても笑える要素が上手に混ぜ込んである。ついでに言うと、これら全てが本来のターゲットであるべき子供たちに分かるよう平易な言葉でのみ語られてることには驚くばかり。脚本家の腕ここにあり、か。
 ところで観終わったら、あろうことかクライマックスフォームがカッコ良く見えてきた。もしや感情移入のあまり良太郎のセンスに感染したってことだろうか。これは、かーなーりーヤバイ!


9月23日(日) 晴

 「地獄への道は愚か者たちの善意で舗装されている」と言ったのは誰だったか。
 『ローマ人の物語 終わりの始まり(29〜31巻、塩野七生/著、新潮文庫)』を読んで、ふとその言葉を思い出した。この3冊では、五賢帝の一人とされたマルクス・アウレリアスに始まる、滅亡へと傾く曇り空の時代がアウトバーン並みに広くて美しい道になっていくのが、巧みに読み解かれてゆく。
 英明なる哲人皇帝が結句、頭デッカチの世間知らずだったというだけなら批判すればいいだけなのだが、彼もその後に続く人々の多くもまたその職責に忠実に身命を削って務めた結果なのだから「あはれ」としか言いようがない。ついでに実の息子だけが己の保身にのみ汲々としてたってあたり、泉下のアウレリアスが不憫にすぎるオハナシである。巻末近くに記された「結果は悪かったとしても、当初の目的ならば立派で、善意に満ちたものであった」というシーザーの言葉が、まるで道を誤った後代を庇う言い訳のように聞こえてしまうのがまた切ない。
 思えばロベスピエールだってレーニンだって木戸孝允だって、いやさヒトラーでさえ、その行動の発端は善意なり正義感なりだった筈なのだよな。現代に生きる政治家たちにしてもそうかもしれない。まあ、我が国の場合は「目の付け所は悪くないけど実施状況が最悪で結果も暗澹」な愚策ばかりなので、すてきな近道が舗装されてるわけなのだけれど。


9月24日(月) 晴

 ぐだぐだ過ごした昨日から一方通行のタイムスリップを敢行し、録画の『仮面ライダー電王』を観る。
 「Double-Action」ピアノ・ヴァージョンの美しい旋律流れる中、語られたのはなんとも辛口のストーリーだった。人に記憶されていない者はイマジンを倒しても現代に甦ることはなく、時を彷徨うことになる…という結末に、侑斗の置かれた状況を思わされずにいられない。また、これまで時々食堂車に居合わせた乗客も、(少なくとも一部は)そういう者たちだったのか?と愕然とさせられた。この感じ、かつて少年ドラマシリーズと銘打たれてNHKで放映され70年代SFチルドレンを思いっきり鬱にしてくれた一連のSFドラマに似ているなあ。特に『続・時をかける少女』のインド人のラジオにまつわるエピソードあたり。
 とはいえ「みんな元に戻ってめでたしめでたし」ではないことは、いまどきドラマ、ことに子供向けのそれとしては非常に重要だと思う。覆水盆に還らざるを理解しないままティーンエイジを迎える子供なんかが出てこないために、きっちり魂に刻んでおいて貰おう。ええ、あのラジオの一件はいまだにトラウマですが何か。

 それにしてもハナタロスいやもといハナちゃんが子供化してるのが、役者さんの不調によるというのは本当だろうか。風の噂では人気が出たので事務所が仕事を詰め込みすぎて倒れたというが…なんとか復帰して欲しいものだなぁ。たしかにちみっちゃいハナは可愛いけれど、役者さんがスタッフたちと創り出したあのキャラクターの代用が利くわけではないのだ。ハナクソ女、カムバーック!殴りに来てくれたら大歓迎!

 午後、物置/作業部屋/書斎の片付けに没頭。本日のお題はビデオ。20年このかた撮り貯めてたヤツが小ぶりのダンボール箱にみっしり詰まって物陰にあったのを、引きずり出してきて片端から廃棄。まれにDVD化されていない映画(コヤニスカッティ!)だのねこまの大事なフィギュアスケート(1990年のNHK杯?)だのとトンデモなものを保護しつつ。
 とこうするうち、なぜかベータが出土して驚く。なにが驚きって、我が家にはいまだかつて実機があったことが無いのだよな。朧な記憶を手繰ったところでは学生時代、仲間の家でアレとかコレとかダビングさせて貰ったものの筈…だが、今となっては確かめるすべもない。もって冥すべし、南無阿弥陀仏。

 とか言ってるうちにその奥からスーパーファミコンとソフトの山を発掘し、中に某ダンジョン潜り商人を見つけてしまったのだがどーしたもんだか。いや、言うまでもなくこっちが生ける屍化してるんですけどね。誰か成仏させてください。

 夜、『まさかの結末(E・W・ハイネ/著、松本みどり/訳、扶桑社ミステリー)』を読む。残念ながら、星新一に鍛えられブラウンに浸りラファティに翻弄された世代には全く読みどころなし。どこが「まさか」なのヨと尋ねたくなるオチの見えっぷりに、わずか数編を読むのが大儀になってしまった。ショートショート好きに勧めるとぶっ殺されかねない1冊、日ごろ読書の習慣の無い人の退屈しのぎ向きかな。


9月25日(火) 曇時々雷雨

 仕事で外出中にちょいと時間が出来たので本屋へダイブ。ハリー・ボッシュシリーズの新刊『終決者たち(マイクル・コナリー/著、古沢嘉通/訳、講談社文庫)』上下巻と『石のささやき(トマス・H・クック/著、村松潔/訳、文春文庫)』を手にコミック売り場を通ったら、新刊置き場に『エマ 9巻 (BEAM COMIX)(森薫/著、エンターブレイン)』を発見。
 表紙が!
 表紙が!
 表紙がぁぁぁぁぁッ!
 麗しきメルダース夫人(及びそのダンナ)が、ばばばばーんと!
 ええもう、我を忘れてレジに走りましたともさ。その前に相方の『少女ファイト 3(日本橋ヨヲコ/著、講談社)』と『ブリザードアクセル 11(鈴木央/著、小学館)』なんてブツも持ってたんで、会計してくれたお嬢さんにナニモノに見られたかな、って気が少ししますが。ええ少し。

 で、さっそく一読。
 冒頭、迷子のリスのエピソード。コミックにありがちな擬人化を廃し、リスの目から見た森の大きさ美しさ、またその脅威を描いてさながら『シートン動物記』。アニメでキャラクターたちがイマイチ原作から乖離してるそうだから、いっそこれを動かしてくれんかね。
 で、続くはメルダース夫妻のアンニュイな朝の情景。うーむ、エロい。指とか髪とか、およそあたりまえに目にする身体の一部がどうしてこんなにエロティックなのか。だがエロいのにいやらしくない。静かでかつ濃密な大人同士の情愛がいっそほほえましく、夫人がふいと可愛い表情をするのにえへへとニヤついてしまった。どうしてこれで無表情を通せるんだ、ヘル・メルダース!
 ウィリアム坊ちゃんとハキム王子様の友情ストーリーもいい。特殊な環境にある子供を子供らしく可愛らしく描きつつ、反面国家間に横たわる時代の空気をちらりと見せるのもまた上手い。なんつったってこの両国、片方がもう一方をヤク漬けにして支配しようとしてたんだからなあ。
 後半のスピンオフ・ストーリーでは新たなメイドさんが登場。一種独特な直截さと気合の入った主人思いがなんとも好ましい姐さんである。さらにスピンアウトして彼女のお話もものしていただけないかなあ。



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